例えば、太陽のとっての月。

 明るい自分を、いや、明るすぎる自分を眩しがるのでもなく、ただ、そこにいてくるれる。
 
 例えば、月にとっての太陽。
 
暗い自分を照らしてくれて、だけど何も言わず、ただ、そこにいてくれる。
 
 正反対な二人ではあるけれど、つまりは、太陽と月。
 
 二つでワンセット。いつまでも、二人は一緒。
 
 それだけは、絶対に変わらないはずだから。
 
 きっと。

 
 


第1話
 
ある朝の出来事
―陽(ひ)と月(つき)の場合―
 



 
 魔法学園と言うのは、つまるところただの学校だ。
 なんだそれって思うかもしれないけれど、別になんていうことはない。通っている私達にすれば、それ以外の言い方なんて出来そうにもないのだからしかたない。確かに普通の学校とは少し違ったところもあるけれど、ほとんどの部分は”ただの学校”と言ってしまっても差し支えのないものなのだ。
 魔法学園と聞いて、中では羊の内臓をむさぼったり処女の生き血をすすったりしているなんて言う想像をする輩は最近はごく少数にはなってきてはいるが、少なくとも、そういう風に思っている人がいるのもまた、事実ではある。
 秘密主義、というのだろうか。確かに、魔法は使いようによっては実に危険な代物ではある。人が手にしてはいけない悪魔の力、と揶揄された時期もあった。だからと言うわけではないのだろうが、魔法に携わるものは魔法の知識が一般人の手に渡る事を実に警戒している。
 無論、魔法を使うには血縁的な条件やら才能やらが必要なので誰でも使えると言うわけではない。一子相伝と言うべきか。血縁のつながりやらを重視するあまり、閉鎖的な空間を作ってしまっているのもまた事実ではあるのだが。
 が、ここ最近は勝手が違う。少なくとも、末端の学校―国際魔法連盟の承認を受けて間もない学校―などにおいては、変化が顕著に現れている。
 その変化が何かと言われれば、つまるところ、魔法学園がただの学校になってきているのだ。
 「あうぅ……」
 確かに世界的に有名な魔法学園、それこそイギリスの『時計塔』みたいに、秘密を頑なに守る事を至上主義とするような老人達の作った古臭い学校なんかは、どちらかと言えば『研究所』みたいな趣があるかもしれないけれど、私の通う学校はそうじゃない。
 校舎はただの近代的風味な建物。場所は日本。どこにでもあるような至極普通の田舎町の、名前も無いような山の上にある。
 ただの、学校だ。
 「はぁ……はぁ……」
 最寄の駅は魔法学園前(コンビニもキヨスクもないと生徒達には不評の駅である)。
 駅から学校までは徒歩で15分。距離にすればあまり長くはないが、坂道がきつい。毎朝通えば少しは体力が鍛えられそうな気さえするくらいの坂道。こんな坂道なんだからバスを出せば良いのに、といつも思うのだが、『魔法使い』には体力も必要である、という学校の方針によってその案が叶えられた事は一度たりとも無い。
 と、言う以前に。道が舗装されていないのでバスで走るのもあまり安全ではない、と言う理由もあるのかもしれない。
 そう。この学校へと続く長い長い坂道は、実は舗装されていない。アスファルトなんていう近代的な装備のない、ただの土道だ。
 自然に恵まれている、って言えば聞こえは良いかもしれないが、ようするにただの田舎なのだ。
 何でわざわざこんな辺境の地に学校を作ったんだろうか。少なくとも、この学校に通っている人間でこの疑問を持たない人間はいないだろう。
 「ち……遅刻……」
 そんな坂道から周りを見渡せば、誰もがびっくり田園風景。今の日本にまだこんな風景が残っていたのかとびっくりし、あるいはほっと胸をなでおろすような光景だ。青い空。白い雲。そして広がる緑。空には鳥が飛び田んぼで虫が鳴く。
 さて、ただ今の時刻は8時25分である。駅舎に備え付けられた時計がそう言っているのだからたぶん間違いはないのだろう。つまり今は、学校の朝の朝礼がが始まる5分前、ということになる。
 そんな折。学校の正門へと続く厳しい坂道―通称『地獄坂』―の真ん中辺り。普通の人ならあと7・8分もあれば学校に付くであろう位置に。
 彼女は、いる。
 「あ……あかん。遅刻だけは絶対にあかん」
 よく見れば、彼女は一人のようであった。制服を着ているからこの学校に登校してきている生徒であることは間違いないのだが、周りに似たような姿がないのは、遅刻寸前だからであろうか。
 「くっそー。何でこんな事に……」
 いつもやったらこんな事にはならへんのに。
 心の中にあるその台詞を、彼女はかみ殺した。
 確かにいつもの自分なら遅刻せずに済むだろう。小学生だった時に拝命した「韋駄天少女」の名前は伊達ではない。
 だけど、今日は別。寝不足の頭はふらふらのボロボロ。しっかりと一歩を前に進める事さえ難いらししく、足取りは見ているほうがハラハラしてしまいそうなくらいにおぼつかない。時折地面の出っ張りに足を取られそうになりながらも転ぶ事がないのは、単に、普段の彼女の努力の賜物であろう。負けるな、榊第二小学校の韋駄天少女。
 「ああ……今やったら立ったままどころか歩きながら眠れそうや」
 ふらふらのボロボロにハラハラ。そんな実に危なっかしい歩調で、だが、何故かこける事も道を外れる事もなく、彼女は坂道を登り続ける。
 「何であそこで調合に失敗してもうたんやろうか……あれで一から全部やり直しせんなあかんかったし……」
 彼女の口から出てくるのは、昨日の夜の事。
 「ったく。なんだってあんなに面倒くさい調合を宿題に出すかなぁ。第二配合に使う材料を余裕を持って二回分作っとらんかったら、間に合うどころの問題やあらへんかったんやで、ほんまに」
 頭の中に薬剤授業の先生の顔が思い浮かぶ。地元に住まう、薬剤授業の先生にして私たちのクラスの担任。年は20代後半の、現役バリバリの独身女教師。20代後半のくせに妙な美貌を持ち、男子生徒の間では密かな人気。好きな食べ物はカレーで。嫌いな食べ物はしいたけ。
 そんな彼女が、頭の中で嫌味に見えるくらいににっこりと笑っていたりするもんだから、思わず蹴飛ばしてしまいたくなった。
 「スリーサイズはひ・み・つ、ってアンタ何歳やねん」
 基本的に厚手の服を好んできているため体型が表に出る事はほとんど無いが、きっとナイスバディにちがいない、とは男子達の希望的観測。なお、その実際を知っている女子もごく少数いたりするのだが、なぜか彼女達は頑なに口を開こうとはしない。あるいは、脅されているのではないか、との憶測も流れていて、実際には謎に包まれている。
 「絶対に何かあるんやて、あいつ」
 と。
 
 「おっはよー!」
 
 唐突に聞こえてきた声はともかくとして。
 声と同時に何か大きなものが彼女に向かってきているようではあった。
 それに対して何らかの反応を示そうかなぁ、と彼女の脳が判断を下し、そし
 どすん、という実にリアリティのない音がして。
 彼女の身体は飛び掛ってきた何かをよける事さえせずに地面へと吸い込まれるように倒れていった。
 「あれ?」
 そして、何とも間の抜けた声が聞こえたかと思えば。
 バタン、というこれもまたリアリティのない音と共に地面へと着地した。
 顔から。
 「…………」
 見事なまでの着地だったに違いない。少なくとも、この着地が歴史に残る事は想像に難くない。それは、それほどまでに見事な着地だった。
 モロに顔面から。受身一つ取れずに。あるいは、こけた本人は何が起こっているのかが全くわかっていないのかもしれないが、それはまるで、アニメのワンシーンのような。少なくとも、生きているうちに一回ぐらいは誰もが見たいと思うようなくらいに。
 見事なこけっぷりだった。
 「ええっと……ツキさん?」
 顔面から見事に大地との親睦を深めている彼女、ツキは、だが、起き上がってこない。
 起き上がれない、というのかもしれない。
 そして。飛び掛ってきた何かのその張本人であるところのもう一人の少女は、倒れてしまった彼女の方を凝視して動かない。
 動けない、というのかもしれない。
 何て言っていいのか。あまりに出会い頭すぎて気の聞いた冗談一ついえないじゃないの、とその少女、ヨウは思った。あ、いや。そんな事を考えてる場合じゃないのにって、ああなんだか錯乱してるのかも。とりあえず落ち着け。落ち着いて、私。
 「ええっと……」
 言葉に詰まる。声帯が何通りかの言葉を吐き出そうとして、だが動かない。何を言っていいのか。あるいは、話しかけてしまっていいものか。
 って、落ち着こうとした割には随分と慌てふためいてしまっている自分に気づく。とりあえず、何か言わねば。何か言わねば。何か言わねば。
 「あ、あたし。何にも変わった事してないわよね……」
 そうだ、とヨウは思った。
 別に何も変わったところなどなかったのだ、と彼女は思い至る。普段どおりの接し方。彼女と会うときは最初の挨拶は常に攻撃だった。それはどちらが決めた取り決めと言うわけでもなく、誰かに決められた強制力というわけでもなく。だが。その決まりは純然とそこにあった。いつ出来たのかを知る者はいない。あるいは、ヨウとツキが出会ってしまった瞬間から始まったと言う者もいるかもしれない。
 それは儀式。それは通過儀礼。これなくして一日は始まらない。
 だからである。いつも通りの先制攻撃。そこに何ら普段との違いを見出す事は出来ない。なのに。だというのに。
 「何故……避けなかった……」
 そう、死体に話しかける。
 おそらく生きてはいるのだろうが―万が一と言う可能性も無きにしも非ず―、少なくともツキは先ほどからピクリとも動いてはいない。
 「何故だ……いつものお前ならあっさりかわせただろうに!」
 自分から蹴りを入れておいての台詞とは思えない台詞を紡ぎ続ける少女。
 だがそれでも彼女は起き上がらない。起き上がれない。
 「それでもこの私のライバルか!?」
 「…………」
 死体は喋らない。
 「ふん。情けない。私だったらあのくらいの奇襲はあっさりとかわして、逆に相手を投げ飛ばしているところだぞ!!」
 「…………」
 死者は黙して語らず。
 「…………」
 「…………」
 死人に口なし。
 「…………」
 「…………」
 棒でつついてみたり、蹴っ飛ばしてみたりしてみても反応なし。
 「ええっと……ロリタイガー」
 「…………(ぴくっ)」
 反応あり。
 「が、頑張れロリタイガー。負けるなロリタイガー。明日がきっとあるぞロリタイガー」
 「…………(ぴくぴくぴくっ)」
 覚醒のときは近い。
 「やっちゃえロリタイ……」
 「…………(がばっ)」
 覚醒。シークエンスタイム零コンマ五秒。脊髄反射で回避行動へ。
 「そ、それじゃあ……ち、遅刻するから先に行くね」
 「っざけんなっ!!」
 とりあえず、鉄拳制裁だ。
 
 「痛いよぉ」
 「天罰や」
 「酷いよぉ」
 「ヨウよりましや」
 とかなんとか。
 そんなこんななやり取りを繰り返しながら、二人は廊下を歩く。 
 建物としての年齢はそんなに深くはないはずだが、やはり廊下と言うものは建物の中でもまず初めに汚れ始める。ぱっと見は綺麗であっても、角や隅っこの方には見えない埃がたっぷりと積もっているだろう。無論、掃除をしないわけではないが、したからといって生徒が嫌々やるようななまくら掃除である。ゴミが全て片付けられるわけもなく、結果として埃は隅へと押しやられる事になる。
 意外と窓が綺麗なのは、ここの掃除を受け持つ班の中に綺麗好きがいるからだろうか。彼女達の歩く1階の渡り廊下は、そんな綺麗に拭かれた窓から差し込む陽光が暖かい。
 「で……これからどーすんのさ」
 「どーするもこーするも……何にしても、教室には行かなきゃならんでしょうに」
 「だろうねぇ……」
 肩を落とす二人。並んでみれば、あるいは姉妹のように見えるかもしれない彼女達。そんな事を当の本人達に言えば、「こんな奴と血がつながってると思っただけで寒気がする(わ)!」とか何とかいった憎まれ口を叩いた挙句、誰かが止めるまで決してやめない壮大な喧嘩を始めること請け合いなので言わないでおこう。彼女達の喧嘩によって、学校の授業が一週間中断になった話などもあるが、それはまた別の話だろう。
 閑話休題。
 ともかく、今朝のような場合。誰が悪いかと言えば問答無用で遅刻した本人が悪い。そんな事は百も承知ではある。あるのだが、それでも割り切れない何かが二人の中にはあるようで。
 「大体なー。ヨウが余計な事せんかったら間に合ってたかもしれへんかってんで。ほんまに、このがさつな女ときたら」
 「あたしがやろうがやるまいが、ツキは遅刻してたって。今更言い訳は見苦しいぞっ」
 等の言い合いを何度も何度も繰り返している。
 彼女達が言い合いを繰り返すのはいつもの話。こんなに仲が悪いんだったら一緒にいなきゃいいのに、とは周りの談だが、なぜか彼女達は常に一緒にいる。仲がいいのか悪いのか、とはまさしくこの事であろう。
 「そー言えば、この前貸した本はいつになったら帰ってくるんや?」
 「そっちこそ、あの時貸した金はいつ返してくれるの?」
 喧嘩するほど仲が良い、という格言もある。きっと彼女達の間には、誰も知らない深い友情が。
 「あれはヨウが勝手に払ったんやろ。奢ってくれたとばかり思てたわ」
 「それを言うならあの本は貸して、くれたんじゃなかったっけ? もうあたしのものだとばかり思ってたわよ」
 ……あるのだろう、きっと。
 と、いつの間にか、彼女達は渡り廊下の終焉へとたどり着いていた。
 この学校には二つの校舎がある。一つが玄関のある旧校舎。もう一つが、最近になって建てられたばかりの綺麗な新校舎。
 そして、その二つの両者を結ぶのが、全階に設置されたこの渡り廊下、というわけだ。
 結局、遅刻が確定的となった二人は、もはやここまでよ、と特にあせる事もせずのんびりと登校していた。んで、今になってようやっと自分達の教室のある新校舎に入る事が出来たのだが……。
 「しっかし……遅刻は確定。ほんま、頭が痛いわ」
 寝不足で事実として痛みのある頭にさらに何かがのしかかってくるような感覚。そんな頭を何度もさすりながら、ただ目前に歩を進める。
 「しかも一時間目は薬学基礎。おばはんのことやから、きっとごっつい説教が待っとるんやろうなぁ」
 「気にするな! いつもの事だ!」
 「そりゃヨウだけやって……」
 遅刻常習のヨウともなれば、あの説教にも耐性くらい出来ていてもおかしくはないだろうが、一応まがりなりにも小・中校とクラス一の優等生を演じ続けて来たツキにすれば、説教などはそう何度も受けるものではなく、一度でも憂鬱の種なのだ。
 ツキはツキで、遅刻常習であるところのまさしく駄目生徒なわけだが。毎日説教され、それでも気にすることなく遅刻を続ける辺り、あるいは大器なのかもしれないな、とツキは時々思ったりもする。
 しかも今日は、一時間目こそがまさしくおばはんこと担任の先生の授業。クラスの中でも、その日の遅刻だけは何としても避けなければならないと言う暗黙の掟まで存在するくらいだ。
 それでも。それらを全て考慮に入れたとしても。
 「ま、しゃあないわ。遅刻したのはあたしのせい。誰のせいでもないし、こってりしっかりしぼられよっか」
 そう考え、思ったとおりの事を口に出すと、
 「…………」
 沈黙。
 「……なんやのその顔は」
 ヨウが、何やら信じられないものでも見るような目つきでこちらを見ていることに気づき、ツキは訝しげに声を上げた。
 「あたし、何か変な事で言うたか?」
 その言葉にようやく我を取り戻したのか、はっと何かに気づいたような表情をし、
 「だ、大丈夫? な、何か変なもんでも食ったんじゃあないの? 保健室。そうよ、保健室に行かないと」
 と、何やら本気で心配そうな顔をしてそんな事をまくし立てた。それだけでなく、ツキの両肩を手でがっしりとつかみ、錯乱したかのように思いっきり揺らし始める。
 「あんたがあたしの前でそんな殊勝な事考えるなんて……脳ね。脳がやられたのね!? 今年の風邪は脳から始まるのかしら。とりあえず、何とか処置をしないととんでもない事に。保健室、いえ、病院……いいえ。それだと間に合わないかも。衛生兵ー! 衛生兵ー! しっかりしなさい。すぐに衛生兵が来てくれぐえっ」
 今度は、最後まで言わせてもらえなかった。言葉の途中で、ツキの容赦ない一撃がヨウの腹を直撃したからだ。
 情け容赦など欠片微塵も感じられない、みぞおちへのあまりに見事すぎる一撃。
 「月陰流奥義、天国への階段」
 目の前で、ヨウの身体がぐらりと崩れ落ちるのが見える。
 その場にペタンのへたり込んだヨウは、片手で腹を押さえ、かなり苦しそうな表情でもってこちらを見上げている。
 「ふ……まいったか。我が家の先祖代々に伝わる秘奥義。これをくらって立ち上がれたもんは一人もおらへん」
 「くふっ……やるな」
 「しかし一体何や、急にトチ狂い出しよってからに。そっちこそ変なもんでも食ったんと違うか?」
 「いや……そんなことは……ないと思う。って……さすがに喋るのが……辛い」
 本気で辛そうである。
 「大丈夫か? 何やったら、保健室か病院までやったら連れてったるで。それでも間に合いそうにないなら衛生兵でもええけど」
 「人のちょっとしたジョークをそこで返すか……くそっ。なんてやつ……」
 そこまで言って、さすがに本気で辛そうだったのでツキはヨウを助け起こした。肩を貸すような形で、ヨウを立ち上がらせる。
 「ほら。さすがにやり過ぎたみたいやな。しゃあない、保健室まで連れてったろ」
 「あ……ありがと。って、この場合正しいんだろうか」
 「正しいて。アタシが連れてったろうか言うてんねんで。感謝せな罰当たるぞ」
 「さよですか……」
 もう何を言っても無駄だな、と。悟るような思いでツキに身体を預けるヨウ。しばらく引きずられるように歩いているうち。
 「あれ? この匂いって……」
 寄りかかったツキの身体から何か良い匂いがしてきている事に気が付く。ゆっくりとかいでみれば、柑橘系の匂いであることはわかるのだが……。
 「ん? ああ。昨日調合してたからやな。ずっと調合室にいたもんやから、変な匂いが身体についてもーたんやろうなぁ」
 特に気にした様子もなくツキはそう言う。
 「で、それがどないしたんや? 匂いが嫌やって言うんやったら離れてもええで」
 「いや、嫌とは言ってないけど」
 「そうか」
 しばらくの沈黙。
 「そういえばさ、前にもこんな事があったような……」
 「前にも? いつやったっけ?」
 微かな記憶。正確なことは覚えてはいないが、確か結構昔の話で……。
 「ここに入学する前。そう、中学通ってた頃」
 「中学の頃? そんな頃の話なんか、よお覚えとるなぁ」
 思い出す。心の底から見つけ出されてくる、記憶の欠片。
 「あの時もあたしがツキに殴られてさ……」
 「え……?」
 思い出してきて、笑いが起こってくる。
 「そりゃ、びっくりしたのなんのって。かの有名な優等生さんに思いっきりぶん殴られたんだから。始めは夢かと思ったわよ、ほんと」
 「う、うっさいわ。あれは、ヨウが変な事言うたから……」
 ツキはツキで、何か思い出す事があったのだろうか、さっきから顔を合わせようとはしてくれない。
 「あの時も、私が苦しがって、こうやって肩貸してもらってたし」
 「そんなこと……よぉ憶えとったなぁ」
 忘れていてもしょうがないだろうな、とヨウは思う。あの頃、ツキの意識はヨウにはなかったのだから。だけど、私は覚えてる。貸してくれた肩の暖かさとか、同じような匂いとか。
 「技名も全く同じ。進歩ないねー、お前」
 「うっさいわ」
 拒絶の声も、だが、そんなに嫌そうではないと感じるのは、自分の勝手な想像だろうか。
 あの時は、”良い匂いだね、よく似合うよ”って言ったけど。ツキときたら、その言葉にえらく喜んでたけど。
 さて。今回は。
 「ツキって、何だかよくわからない奴ね」
 「……お前もやろ」
 静かな廊下に、二人の歩く足音だけが響いて聞こえる。微かに香る何かの香り。暖かい日の光。しばらくぶりに触れたツキの身体の温かさ。一歩一歩、ヨウに合わせるようにゆっくりと進んでくれるツキの歩調。間近で見るツキの横顔。それら全てが。それら一つ一つが。
 「なぁ、この匂いだけど、やっぱ……」
 「うん? なんか言うたか?」
 「……ううん。なんでもない」
 何かを思い出したのか、少し恥ずかしそうに横を向くツキの顔を見て。
 こんなのも良いかなぁ、って。そう思えたのだ。
 
 それから保健室に着くまでの間。
 何やらかにやらの理由をつけて、二人でひたすらに言い合いを繰り返していたが。その表情が少し楽しげだった事に気が付いた者は、たぶん、いないだろう。


 


続く


 


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