白と黒。
一番遠くて、一番近い。
白と黒。
はっきり違って、はっきり同じ。
白と黒。
反発し合う二つ。馴染み合う二つ。
白と黒。
さて。貴方は、どっち?
第3話
ある朝の出来事
―白(しろ)と黒(くろ)の場合―
噂話を一つしよう。
それが真実かどうかはとりあえず置いておく。噂話が真実かそうでないかは、広める当人達にとっては何の意味もない。問題は、それが広めるに値する噂であるかどうか。それだけなのだから。
だから、これからの話は話半分嘘半分で聞いてもらって結構だ。そんな事あるわけないと鼻で嘲笑するもよし、誰かに吹聴して回ってもよし、自分の書く小説のネタにしてもらってもよし。
だけど、これだけは約束してほしい。
あくまでも噂は噂だと認識する事。それができるのなら話そう。
それは、とある魔法学園での出来事だ。
この物語の主人公は、この学校に最近赴任してきたばかりの新人教員。仮に名前を、教員Aとしておく。赴任したてで、まだ学校の事のよく慣れていない、若い青年。彼が今回の主役。
彼はある日の夜、学校に忘れ物をしてきている事に気が付いた。教員であるにもかかわらず忘れ物をするのは、未だに学生気分が抜けきっていない証拠なのであろうか。確かに、赴任して2週間。そろそろ職場の雰囲気に気も慣れ始める頃。慣れ始めるという事は、それはつまり、気が抜け始めてくるという意味でもある。だらけた雰囲気を自覚しているわけではないが、少なくとも、赴任当初の緊張感が薄れ始めている事はわかってはいる。
そんな頃にやってしまった、一つの失態。
その忘れ物が、どうでも良いものなら良かったのだ。明日になってから回収すれば良いだけの事。
が。今回はそうも行かない。忘れたのは、自分の受け持つクラスのテストの解答用紙。しかも、まだ全ての解答を終えているわけではない、という点がミソだ。本当なら、昨日のうちに仕上げてしまわなければならないはずの仕事だが、家に持ち帰ってやるからいいや、とあと少しを残して放置しておいたのだ。
解答の返却日は明日。さらに言えば、一時間目。
それら全てを客観的に判断した結果、導き出された答えというのが、つまりは『今から取りに行く』であった。
気付いたのが家についてからすぐという事が幸いし、今から行けば電車がなくなるという事は無い。とりあえず、鞄の中身を少しだけ軽くして、彼は一人暮らしの自分のアパートを出る。
学校の最寄の駅まで、時間はそれほどかからなかった。
電車の乗り合わせが偶然良かったのだが、ここまでスムーズに行くと逆に何か薄気味悪い。
そんな嫌な予感を振り払い、学校前の急な坂―地獄坂というネーミングはある意味で正しいと彼は常々思っている―を何とか乗り越え、学校の校門までたどり着く。
「あれ……?」
校門に着くなり、彼は驚いた。何故って、校門が開いていたから。
開いているとは思ってもみなかった。もう既に門は閉まっていると思っていた彼は、警備員に頼んで開けてもらうか、最悪、門を乗り越えようかとも思っていたわけで。それらの計画全てが一瞬にして無駄になってしまったのは、嬉しいような、少し拍子抜けするような。
ともかく。彼は難なく校内に入る事が出来た。目指すは職員室、自分のデスク。
入ってしまえば後は簡単で、迷う事なく目標の物を見つけ出す。それをすぐに鞄にしまうと、彼は長居は無用とばかりに職員室を後にした。
そして、そのまま自宅に帰った……となっては面白くもなんとも無い。噂話になる様な話ではない。
無論、これで終わるわけではない。これからどうなるか、というお話である。
彼は職員室を後にする。何とか目的を果たした事で、彼の心に少しの余裕が出来始めてきた。
その余裕が曲者なのだ。今まで物を取りに行く事に意識が集中していたので気付かなかった事に、今になって気付き始める。
気配。
無人であるはずの学校に、何かの気配がある。
その事に気付いた彼は、急に、見ている周りの全てが怖く思えてきた。
例えば、避難ベルの赤い照明が見えるたびに驚き、時計が時を刻む音にびくびくし、自分の足音に恐怖した。
それら全てが自分の妄想の生んだ架空の恐怖である事はわかっている。だが、さらなる想像力が恐怖という恐怖を駆り立て、連鎖は止まらない。
早く帰らないと。彼の意識はそれに集中し始めた。早く帰らないと。早く帰らないと。早く帰らないと。
と。
「ひっ」
彼の中で、ひときわ大きな恐怖が跳ねた。何か、物音がしたような気がしたからだ。自分の後ろの方、確かそこには、トイレがあったはずだ。
とっさに、彼は振り返る事を躊躇した。
別に気にするなよただの風の音さ、という心の声は恐怖に圧殺され、早く帰らないという思いは、恐怖への少しの好奇心に打ち消された。
絶望的に長い時間。ゆっくりと進む時間がもどかしく、時計の音さえもが低速で進んでいるような気さえしてくる。
粘着質の時間。振り返るか振り返らないか、もはや逃げるという選択肢は無い。いつまで続くか分からない沈黙。動き出すきっかけの掴めない停滞。その瞬間、まるで時間は止まったようで。
風の音。
それを契機に、彼は振り返った。振り返れた。振り返ってしまった。
そこには。
「あ……」
少女がいた。それも、二人。
一人の少女が、もう一人の少女の手を引くように歩いている。暗くてよくは見えないが、シルエットから背が小さい事はわかる。
ただ、それだけなのに。
彼の目には、それが何かものすごく恐ろしいものに映ってしまっていた。
一度火のついた恐怖心は、なかなか鎮火しない。彼はまだ、恐怖の中にいたのだ。
そんな彼が、恐怖のどん底に叩き落されるのは実に容易かった。
少女の一人が、こちらを振り返った。それだけで、彼の恐怖は限界に達した。非常ベルの光を浴びて赤く染まったその顔が、彼には、まるで、
血まみれの少女のように見えたのだ。
噂話はここで終わり。
その後、彼がどうなったかとか、その少女の正体がどうだとか。そんな事への結末は用意されてはいない。
怪談話としては実にB級で、噂話としてはさらにC級だ。
一応、この少女は宇宙の果てからやって来た世界征服をたくらむ謎の宇宙生物の造り出した生物兵器で、この後あの新任教師は改造手術を施され正義のライダーとして地球平和のために戦うのだったのだわはは、などといった結末が無い事は無いのだが。
噂話も最早そこまで行くと作り話である事がばればれで、尾ひれのつきまくった噂話の、その原型が何であるかは既に分からない。
今わかる事は、そんな噂が存在している事だけ。
さて、噂話を一つしよう。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
『遅刻』と言う言葉がある。
辞書的な意味を述べるとするのならば、『定められた時刻に遅れる事』なのだが、学生が言うところの『遅刻』と言えば、つまるところ授業に遅れると言う事だ。
チャイムが鳴った瞬間に教室にいなければ問答無用で遅刻であり、うちのクラスの担任の先生は遅刻には異常なまでに厳しい。彼女の授業がある日に遅刻をしようものなら、長ったらしいお説教を延々と聞かされた挙句に、特別課題とか何とか言って沢山の宿題をお見舞いされる事間違いなしである。
この『ぱんださん組』でそんな遅刻とは無縁の生徒と言えば、合わせて3人。騎士と、しろとくろ。他は常習か、経験者のどちらか。
陽が遅刻をするのはいつもの事だし、天使と悪魔は時折何の前触れもなく遅刻したり欠席したりする。ヒメもそこそこ遅刻する方だし、月も一度だけ遅刻した事がある。
一度も遅刻した事が無い生徒と言えば、まずは騎士。
彼女は、毎朝毎朝感心するくらいに早い時間に学校にやってくるタイプで、遅刻と言うものをした事が無い。多分、いつももの凄く早い時間に起きているので、多少寝坊しても遅刻するまでに至らないのであろう。
そして、残りの二人。
くろとしろ。
彼女たちの場合は騎士とはまた理由が違う。
彼女たちの起床時間が特別早い訳ではない。くろの起床時間は確かにそんなに遅くは無いが、しろの起床時間はその実かなり遅い。毎朝毎朝ギリギリのギリギリまで眠り続けており、くろが起こしに行かなければ起きない程の眠り魔だ。
なのに、彼女たちは遅刻をした事が学園生活において一度も無い。それは、何故か。
答えは、朝の学校の、新校舎3階の一番奥。見た目は他の教室と全く変わらない一室の中に、ある。
何かが重くて目が覚めた。
夢の中で、ものすごく大きな何かに踏み潰された様な気もしたが、それが何かは思い出せなかった。確か、その場面に至るまでの夢もかなり変な内容だったような気がする。学校に急に大きな熊が襲来してきて先生を人質に立てこもり現金100万円を要求。しかし空から降ってきた謎の隕石が熊の頭を直撃し熊は正気に戻りこう言うのだ。「今日の晩御飯は鍋焼きうどん」。
「……くすっ」
少し面白かったかもしれない。
そんな事を考えて、一人でくすりと笑う。最近、一人で笑ったり、独り言を言う事が癖になりつつあるようなきもするが、特に気にしないでおこう。
目を開ければ、そこは布団の中だった。目の前には、自分と同じ年ぐらいの女の子の後頭部がある。
「おはよう」
無駄であるとは知りながらも、一応、声をかける。
「…………」
反応は無い。
「おはよう、しろ」
名前を呼んでも、反応は無い。目の前にいるしろと呼ばれた少女は、いくら呼びかけても突付いても叩いても、全く起きる気配を見せる事なく、ひたすらに眠り続けている。
長い髪。自分の短い髪とは違って、しろの髪は長い。いつもはゴムか何かで一つにまとめている髪も、寝ている時はただのロング。いつもゴムで縛られているからだろうか、少し癖がついているように見えなくも無い。
「……きれーな髪。羨ましいなぁ」
少し、である。癖は少ししかついてはいない。いつもゴムで縛っているのにもかかわらず、である。本来ならもう少し頑固な癖がついてもよさそうなものののだが、それは彼女の髪質のなせる業か、髪を解いても髪型に何の違和感も無い。
はっきり言おう。しろはズルイ。
特にこれといった手入れをしているわけでもないのに(無論、世間一般的な女の子がやっているような手入れはやってはいるが)、彼女の髪はいつでもさらさらのつやつや。生まれ持った髪質、というのだろうか。こればっかりは誰にもまねは出来ない。
「私なんか……人一倍気を遣ってるのに」
言って、自分の髪をなぞる。手触りも悪くない。十分さらさらといっていいレベルだし、ツヤだってある。
……それでも、しろの髪には敵わないんだけどね。
諦めよう。そう思い、一人で布団を出る。布団は横に二つ並んで敷いてあるのだが、いつも二人は同じ布団で二人で寝ている。一緒に寝たい、としろがせがんでくるからだが、くろもまんざらではない。しろはいつも暖かいし、抱きしめるとぷにっとしていて気持ちが良い。
それになにより、可愛いし。
「いや、別にその気はないけど……」
誰に弁解しているのだろうか。
ともかく、自分が起き上がった事で乱れてしまった布団を整えてあげると、彼女は満足げに頷いた。
ふぅ、と大きく息一つ。朝の光に照らされて、埃が舞う様子がはっきりと見て取れる。
それが少し煙たくなってきたので、窓際まで行き、窓を開け放つ。
朝の少し冷たい空気が心地よい。一回だけ深呼吸をすると、寝ているしろの方へと視線をやる。
「ん……んんっ」
見ている先で、しろが少しだけ寝返りを打った。
「か、可愛い」
いつも思うのだが、しろの寝顔は可愛い。
毎朝起きるたびに、その場で写真に収めたり、思わず抱きしめたくなる様な衝動に堪えなければならない位に可愛い。
「…………」
しばらく、しろの寝顔に見とれる。
と。
ジリリリリリリ。
何の音だろうか、と頭を悩ませるまでも無い。くろがセットしておいた目覚まし時計だ。どうやら、今日はいつもより早い時間に目を覚ましてしまっていたらしい。
夢のせいだろうかとも思うが、まぁ、どうでもよかった。
少し眠い目をこすりながら目覚まし時計のところまで歩き、それを止める。少し甲高い音を残して、目覚まし時計は沈黙する。
それから、しろのほうを見るが。
「……まだ寝てる」
これしきの事では、この眠り姫の眠りを解く事は出来ないらしい。恐るべき睡眠力だ。
……睡眠力って、何だろう。
自分で考えておいてなんだが、よく分からない言葉だ。
しばらく一人でそんな事に頭を悩ませ、また、まぁいいや、と言う結論を出すと。彼女は部屋の出口へと向かう。
部屋の入り口には、こんな札がぶら下げられてある。
『しろとくろの部屋』
「おはよう、しろ」
最後に振り返ってそういうと、彼女は、部屋を後にした。
扉を開けて最初に見えるものと言えば、同じく扉だ。その先には、教室がある。
左右を見れば、同じような扉が何個も並び、右の突き当りには窓が。左の突き当りには壁が見える。
さて、ここはどこでしょうか。
「朝の……学校」
正解はくろの独り言まさにその通り。ここは、学校。日本にある数少ない魔法学園の一つ。その校舎の中である。
そう。彼女達、くろとしろは、学校に住んでいるのだ。
何故、と彼女達に聞くと、秘密、と返ってくるだろう。学校に問い合わせみれば、彼女達の家庭の事情で、としか答えてくれないだろう。
理由はともかく、彼女達二人は、公然の秘密として、学校の中の一室で生活をしている。
「…………」
呟く事に意味はなかったので、そのまま左向け左をして、廊下を進む。
朝の光がそこかしこから漏れ入ってくるため、照明が付いていなくても十分に明るい。そんな廊下をしばらく行けば、右前に階段前のエントランスが見えてくる。そこには、小さな机とイスが幾つか置いてあり、休み時間などはおしゃべりに興じる生徒達で賑わう場所である。
が、まだ早朝もいいところなので人の姿は無い。いつもにぎやかな場所が静かなのは、何だか気持ちが悪いような気もする。
その手前。今いる位置の丁度右側にあるのが、今から行く所。
「……トイレ」
宣言して、トイレに入る。
トイレの中で用を足し、手と、ついでに顔も洗い、持ってきた洗面用具で歯も磨く。
がらがらがらがらぺっ。
最後を、大きな音を立ててのうがいで締めたくろは、タオルで顔を拭く。
これで、完璧に目が覚めた。
それから部屋に戻ると、制服に着替え、それでもまだ起きないしろを寝かしておいたまま、部屋をまた後にする。
とりあえず、図書館だろうか。
本は、教室で読む事にした。
図書館で本蒼借りた瞬間、不意にそんな事を思ってしまったのだ。
だから、いつも違って、教室の自分の席で朝の読書。
今日借りてきたのは、どこにでもあるような推理小説。組織の造った薬を飲んで頭に角の生えてしまった少年が、持ち前の推理力で犯人を追い詰めていくという、ある意味どうでもいい小説だ。
今朝は何故か、そのどうでもよさ加減が気に入り、読む事にしたのだが。
「……面白くない」
いくら読んでも面白いところがない。これは、逆に珍しいかもしれない。面白くなさ過ぎる本。この作者は、別の意味での才能の持ち主に違いない。
つまり、面白くない小説を書く才能。
それでも何とかして最後まで読み通そうとしてページをめくり続けていて、しばらく時間が経ったのだろうか。
ふいに、本から意識を離す。何か物音が聞こえてきたような気がしたからだ。
足音だ。教室の廊下を、誰かが歩いている。
こつこつと、足音は近づいてくる。あ、止まった……と思ったらまた聞こえてきた。あくびでもしたのだろうか。
その足音が気になったので、しばらく本に意識を戻すのはやめにする。扉の方を見て、足音に意識を集中させる。
それから次第に足音は大きくなり、教室の扉の前まで来て、足音は止まった。
扉に付いた窓越しに、誰かの影が映る。背が高い。騎士だろうか。
扉が開けられる。入ってきたのは、予想通り『騎士』だった。
「おはよ」
朝に出会ったので、一応、朝の挨拶。いつもはこんな風に出会う事はないので、少し恥ずかしかったけど。そもそも、彼女と一対一で会う事自体が少ない。いつも、彼女のそばにはお姫様がいて、騎士の意識はお姫様にべったりだから。
すると、騎士は少し驚いたような表情を見せてから、笑って、
「おはよ、くろ」
「…………」
不意打ちだった。
まさか、笑いかけられるとは思わなかった。そんな不意打ちを受けたものだから、さっと本で顔を隠さなければならなかった。
ああ。きっと今、自分の顔は真っ赤だろうなと思う。恥ずかしい。笑いかけられた事なんて、ほとんど無いから、そんな事されるととても驚く。
こんな事なら、いつもの通り図書館で時間を潰せばよかった。今日になって急に教室で時間を潰そうなんて、何でそんな事を考えてしまったのだろうか。
「…………」
そんなくろにそれ以上の事は言わずに、ナイは自分の席へと向かう。そんな彼女の後姿を見ながら、くろは心の中でため息を付いた。
いつも思うのだが、騎士ーナイーは、美人だ。確かに、少し身だしなみを気にしなさ過ぎるところもなくは無いが、素でも十分に美人だ。
それに、背が高い。これに関して言えば、くろはナイに嫉妬していた。何なのだろうか、高校生にしてあの規格外の身長は。全く、高校生とは思えない。ついでに言えば、スタイルだって良い。
不公平だ、とくろは思っている。
同じくらいに生まれて、生活環境だってそう変わらないはずなのに、今、こうしてある純然たる差は一体なんだと言うのか。
少しくらい分けてくれたって良いのに、と思った時期もあった。あれだけ出るものが出ているのだから、そこから少しくらい分けてくれたって……。
「……何考えてるんだろ」
自分の少し足りない胸部を眺めて、ため息一つ。別に、そんな事を考えたところで、ないものが増えるわけがない。
悲しいが、現実は見据えなければいけないのだ。
「はぁ……」
ため息もう一つ。
しばらくの煩悶の後、くろは、やっぱりまぁいいや、という結論と共に、
意識を本へと戻した。
さらにしばらくして。
本の内容がそろそろ佳境にさしかかろうとしていた頃。丁度、犯人のアリバイ工作を見破った探偵役の少年が今まさに謎解きを始めようかという丁度その頃。
今度は何かに気付いたというわけではないのだが、顔を上げて、周囲を見渡した。
「…………」
まず目に入ってきたのは、女の子の後頭部だった。それも、見覚えがある。
それが誰の頭かすぐに分かったのは、その頭が特徴的だったからだ。可愛い天使をあしらったブリーチをつけた後頭部。それが誰であるか。くろにはすぐに分かった。
ミス・エンジェル。彼女のクラスメイトで、少し変わった女の子だ。
そんな彼女がくろの視線に気付いたのか、こちらを振り返ってくる。
と。
「……しろは?」
振り返るなり、おはよう、でもなく、こんにちは、でもなく、第一声目にそういった。そして、途切れる事なくこう続けた。
「起こしに行かなくても良いの?」
はっと気付いて、時計を見る。
8時20分。起こしに行こうと決めていた時間は、とっくのとうに過ぎている。
「あ、ありがと」
それだけを言うと、急いで部屋へと駆けて行く。いつもならこんな事はしないが、今は時間がない。
途中で、先生に廊下は走るなと言われたが、完全に無視。忠告は確かに正しいが、そんな余裕が今はない。
しかも、今日の一時間目は担任の先生の授業。遅刻をさせるわけにはいかない。
何とか走って部屋に着く。扉を開ければ、しろは、まだ寝ていた。
「ほら、起きて。起きて、しろ」
今度は、容赦は出来ない。何としてもすぐに起きてもらわなければ困る。さっきは使わなかった、くすぐるというテクニックまでもを総動員して、しろを起こしにかかる。
それでも、しろは3分ほど粘った。
何とか起きた(ような気がする)しろを何とか立たせて、半ば強引に着替えさせ、手を引っ張って自分たちの部屋から廊下へ。
今だ半分以上眠っている彼女を、手で引っ張って無理やりに歩かせる。階段が不安だが、何とかなるだろう。
「むにー。おはろーござりまふ?」
「うん。おはようございますだよ」
時折聞こえてくる寝言らしき言葉に適当な相槌をうちながら廊下を歩き、しろが転げ落ちて言ってしまわないかドキドキしながら階段を下った。
そして、やっと二階に着いたとき。
「あ、おはよ」
挨拶をされた。
振り返れば、下の階から階段を登ってきた先生の姿が見える。少し、いや、かなり若い。大学を出たばかりの、まだ生命力に満ち溢れた、立派な教員だ。
「ええっと……しろ君とくろ君、だったよね」
こちらの姿をはっきりと認めたのだろうか。何とか顔と名前を一致させて、そう言った。
「はい」
とりあえず、それだけ返事をしておく。先生には悪いが、今はおしゃべりをしている余裕はない。
さっさと踵を返して教室へ行こうとするのだが。
「君達、学校に住んでるんだよね」
「……はい、そうですが」
会話はまだ続いているようだ。
「……ええっと、起こしに行ってたの?」
「はい」
そろそろ会話も良い加減にしてほしいんですが。そう思い、そんな視線を彼に向けようとしたその瞬間。
「はい、起こしてもらってるんですよ。毎朝」
しろの声が聞こえた。
振り返ると、まだ眠そうではあったが、しろが起きてこちらを見ている。
「くろには本当にお世話になってるんですよ」
にっこり笑ってそう続けるしろ。すると、そんな彼女達を見たその新任の教師は、同じように笑ってこう言ったのだ。
「仲が良いんだね、二人は」
それを聞いた私は、思わずしろの方を見ていた。すると、しろの方もこちらを見返してきていて。
さっと目と目が合った。
しばらくの沈黙。それは、心地良い沈黙。
それから、しろとくろは、お互いに笑い合うと、二人で一緒に振り返り、彼に向かって、笑って何かを言った。
その声は、丁度聞こえてきたチャイムの音のせいで、ちゃんとは聞き取れなかったが。
その時見せた二人の、うれしそうな笑顔。
それはそれはうれしそうな、笑顔。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
噂話を一つしよう。
とある魔法学園の、夜の校舎での出来事。
忘れ物を取りに来た若い新任教師が、夜の校舎で二人の少女に出会う。
一人が一人の手を引っ張るような形で歩いている少女達は、こちらの姿を認めると、こんばんは、と挨拶をしてきた。
それに応え、こんな時間にここで何をしているのかと問うと、彼女の内の一人、手を引っ張るって歩いていた方の少女が、
「一緒にトイレに行っていたんです」
と答え、もう一人の少女が、
「ボク、一人じゃ怖くて……」
と答える。
彼女達の事情を知っているその教師は、特にそれ以上の事は聞かなかった。
が。
二人で並んで、一緒に歩いている彼女たちを見て、不意にこんな感想を漏らした。
「仲良いんだね、二人は」
それを聞いた少女達は、お互いの顔を見合い、笑い合ってから、こう言った。
「はい。私達は、ずっと、一緒ですから」
と
続く
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